Family Talks Forum (FTF) の一口歴史

- 2011年春 -


FTFの管理人から引退すると決めたらちょっとノスタルジーにおそわれて・・・。FTFの歴史の記録を残しておくのも良いでしょう。

FTF10年の歴史は、その誕生以前の歴史にさかのぼる必要があります。それは1996年のインターネットクラブ(IIEC)の誕生に起因するからです。

インターネットクラブ(IIEC)

トロント新移住者協会(NJCA)の加盟団体に無線クラブがありました。電子に強い人達の集まりであったから、1990年代に広がり始めたインターネットにはすぐ飛びつきました。当時NJCAのみならず、移住者社会にはこれといって若者が集まる組織がありませんでした。「無線」クラブの中の「有線」クラブIIECは急速にコンピューター・インターネットに興味や問題を持つ若者達の溜まり場となりました。毎月の例会は参加者の倍増を見、ポーラカナダの会議室や個人の家では狭くなりました。無線クラブの名前で日系文化会館旧館の部屋を借り始めたのは1997年1月。その後も参加者は増え続け、あの旧館2階の会議室は座れずに立つ参加者も出るほどでした。その年、IIECは無線クラブから独立しNJCAの加盟団体となりました。

これだけの数の会員がいるのだから、もっと楽しくやろう、ということで1997年の年末にIIECクリスマス会を始めました。これには会員でない移住者・若者も大勢集まり、毎年盛大にワイワイ楽しみました。これは2003年まで続きました。

トロント・シニア・ネット・トロント歌声喫茶の会・JAVA などの誕生

その過程で、現在のトロント・シニア・ネットが2000年にIIECのシニアの会員の集まりから誕生しました。IIECクリスマス会でやっていた歌声喫茶まがいの伴奏付き合唱が2001年に生まれた活発なトロント歌声喫茶の会のさきがけでした。さらに現在の若者の集まりであるJAVAが2001年にJSS (Japanese Social Services) から生まれた時も、2年間彼らと一緒にクリスマス会をやりました。当時独身であった、昨年末までFTF世話人のひとりであった増田さんが、初代JAVA会長高梨くんと一緒に司会をやってくれました。今年新しくFTF管理人になった原あんずさんと伊東あいこさんも、初期のFTF会員の多くもこの時期にIIECクリスマス会に参加した人達です。

Japanese Family Services / Japanese Social Services

IIECの世話人を始めた頃からIIECの若い会員からいろいろ相談を受けるようになりました。国際結婚した若い女性からの相談もありました。多くは、見知らぬ地での生活から来る孤独感、冬の鬱陶しい空を見ながらアパートにひとりでいる、あるいは乳飲み子をかかえて、それはうつ病にまで発展することもありました。電話のむこうで泣き出した人もいました。

当時JSSはJFS (Japanese Family Services) と呼ばれ、一時は活動休止状態でした。相談を受けるたびに、ただ単に励ますだけの自分に嫌気が差していました。相談の数はいつも冬が深まるにつれ増えました。FTF (発足当時はBTF=Baby Talks Forum) が冬の最中の2月1日に誕生したのは偶然ではありません。

Baby Talks Forumの誕生

FTFの歴史的瞬間が原あんずさんの2001年の前代未聞、史上最悪のつわりでした。原さんと、やはり同じ時期に妊娠中の伊東あいこさんとの電子メールの会話のループに入っているうちに、問題や悩みを第三者に話すことと、他にも同じ問題や悩みを持っている人がいるのだ、と分かることで問題や悩みの半分が解決することに気がつきました。さらに電子メールの強さにも気がつきました。お互いに相手に時間がないと話せず、それも一対一でしか話せない電話と違い、電子メールだと自由な時間に送り、複数の人達との会話が絶えないことに気がつきました。

ということで、原さん、伊東さん、バンクーバー在住のインターネット会員、三浦の4人で試験的にMLを立ち上げました。当時匿名で自由に話すMLが沢山あり、自分もいろいろ参加していました。ただしそこでのつながりはMLの範囲内だけであり、バーチャルな関係以上のものは起こらない。投稿内容の信頼性への疑問もあります。トロントで必要なのは、家族や友達がいない人達が、手が届くようなところに信頼できる仲間がいる、と感じることであると思いました。この仲間意識の空気を作り出す為に本名登録を必須とし、住んでいる地域、子供の情報なども含めることにしました。2001年2月1日のことです。当時の事情を反映して名前はBaby Talks Forumとしました。

IIEC会員と後述のマミーズ会員を中心に2月の下旬には会員は20人となりました。その1ヶ月間の交信数は何と205通。皆さんが「叫んでいる」と感じました。これなら目標の50会員達成は大丈夫、と思いました。その後の発展は皆さんご存知の通り、今や1000家族に迫っています。会員増加と投稿内容の広がりを反映し、2006年に会の名称をBTFからFTFに変更しました。

池端ナーサリーの援助・バンクーバー「MOM」

FTF発足当初は池端さんの援助が大きな推進力となりました。日系文化会館 (JCCC) 2階のAJC/NJCAコートでの親子昼食会、育児セミナー、さらに最初2回の年末親睦会は池端ナーサリーを使わせていただきました。(年末親睦会は後には会員が増えすぎ、AJC/NJCAコートへ移って2回、そこも狭くなりJCCCの商工会コートで大勢を集めて2007年まで続きました)。また昨年まで続いたハイパークでの初夏のピクニックでも池端ナーサリーチームには随分お世話になりました。FTF会計の最初の入金は実は池端さんからの寄付でした。

また最初の頃は会員数が少なかったことから、情報の深みに欠けました。当時バンクーバーで「MOM」という育児援助活動をしていた、看護婦の五十嵐さんに専門情報を提供していただいたことを覚えている会員もいると思います。

プレイグループ・「MAMMA」マガジン

そうこうするうちにFTF内部にプレイグループが生まれ始めました。松本さんが公園に集まろうと呼びかけたのが草分けのようです。次いで、原さんが自宅で始めたアラモサプレイグループやノースヨークの図書館で始めた根本さん主催の「BTF North Yorkの会」がなどが生まれました。どれも今は存在しませんが、参加していた会員には懐かしい響きと思います。今ではプレイグループやそれに準じた組織が西はロンドン市から北はオーロラ・ニューマーケット地区まで各地で活発な活動を続けています。

FTFは遠隔地在住者にとっても母国語で情報交換でき他の家族と接触できる場所となりました。またFTFはカナダ滞在の理由に関わらず自然な形で参加・貢献できる情報交換・相互援助の場所にもなりました。

2005年春から3年間、橋本さん、Yatesさんの情熱で、タレント豊富なFTF会員が力をあわせた斬新な「MAMMA」マガジンが毎月発行されたことも記憶に新しいと思います。

日本の少子化問題・共同テレビ番組出演要請「事件」

発足当初、日本で少子化問題が大きくなっていました。トロントの日本人社会ではベビーブームが起こっているという情報が日本に流れたようです。大学や子育て支援NPOの育児視察団がトロントを訪れ情報交換をしました。朝日テレビや週刊「アエラ」からの問い合わせもありました。水戸市の子育て支援の集まりにも来て欲しいという要請がありました。

FTFの魅力と強さは、お互いに手が届くところに仲間がいる、現地特有の話題・情報が交換できる、というところにあるという認識から、日本へのFTFの名前の広がりは好ましくないと思いました。本に紹介された時もFTFの名前は伏せてもらいました。また「支援」という、外から手を差し伸べる、という感覚が余りにも日本的です。FTFのようにお互いに助け合い、自分達の強い意志で歩いていくのが理想と思っていました。(FTFホームページにひよこが一生懸命歩いているでしょう)

ここで思い出すのは2003年の共同テレビ番組出演要請「事件」です。トロントの「日本人」家族に取材したいという要請が来、応募した会員がいました。ところが移住者は「日本人」ではないという知らせが届きました。会員からの抗議のメールをまとめて共同テレビへ送りましたね。結局トロントからは誰も出演しませんでした。

ハーモニー・インターナショナル・クラブ (HIC)

FTFはIIECから生まれ、IIECは他にも「子供」組織を生んだことを書きました。ただしFTFの歴史を語るにあたり、ここでもうひとつの重要な歴史的な組織の登場が必要です。

IIEC誕生の前に、ハーモニー・インターナショナル・クラブ (HIC) と言うNJCA加盟組織がありました。実はこれはFTF会員の皆さんの大先輩にあたる国際結婚をした人達の組織で、NJCAの影が薄くなるくらい活発な活動を続けた組織です。その誕生 (1982年) の発端は1985年に日本の国籍法を変えた世界的な運動に起因すると理解しています。

日本国籍法

1985年以前の日本国籍法は父親が日本国籍を持たないと子供は日本国籍を取得できませんでした。国際結婚が増えるにつれこれが大きな問題となり、国際結婚をした人達が世界的な運動を起こし、1985年に、両親のどちらかが日本国籍を持てば良い、と法律が改訂されました。HICもこの運動に加わりました。今、FTFの国際結婚の母親の皆さんが子供に日本国籍を申請できるのはHICを含む大先輩達のお陰です。

(1985年以前の日本の国籍法には不備があり、海外で生まれて自動的にその国の国籍が付いてきた場合は、日本は二重国籍を認めざるを得ませんでした。ペルーの藤森元大統領が良い例ですし、カナダの日系二世でも堂々と二重国籍の人達がいます。これが1985年の改訂の際に、今後は22歳でどちらかを選ばねばならない、という法学者たちが倫理上問題あり、と言っている法律に改訂されてしまいました。これが現在の問題の発端です)

マミーズ

このHICに若い国際結婚の人達も入って行きました。ところがHICではすでに育児などの話題は卒業してしまっていました。それでその若い人達がHICの中でマミーズというグループを作りました。プレイグループのさきがけです。後には独立し、2000年にはNJCAに加入し、代表理事を送っていました。ところが育児の忙しさなどから2002年には休会に追い込まれました。

2001年のFTF発足当初から目的を同じとするグループとしてFTFはマミーズと共同活動し、マミーズ会員の多くがFTFに入会していました。2003年にFTFがNJCAに加盟すると決めた時点でマミーズに合併を呼びかけました。その結果、NJCAへの代表理事はFTF世話人の原さんとマミーズ会長の武田真里さん、代表理事補佐をマミーズ副会長のジョンソンあんぬさんとしてFTFはNJCAに加盟しました。マミーズはその時点で解散しました。

HICは2002年に、その華々しくエネルギッシュな活動を終え解散しました。しかしながらその人達が簡単に消える訳はなく、華やぎ会という文集クラブやうらら会という民謡踊りグループなどで今でも若々しく活動しています。今回の東日本震災援助の為のおにぎり募金活動は実はこの人達です。

FTFの10年

この10年間FTFは、その創立主旨である相互援助・情報共有を守りながら、成長し変遷し、大きな節目に達したと思います。

発足当時はFTF全体で行っていた年末親睦会や初夏のピクニックなどは、組織の巨大化に伴い難しくなりました。それを補うように、しっかりしたリーダーシップが各地域に自然発生的に誕生し、親と子供たちが集い交流できるプレイグループが各地に生まれ育っています。ここにFTFの生命力の強さと、時代の変化に自然に順応する適応性が感じられます。また、NJCAやJSS、日系文化会館などの年中行事や講習会やセミナーに共催・協賛として参加し、会員の利益を図っています。

新しいFTF世話人会

FTF10年目である今年、プレーグループや日本語学校を代表する、FTFの現状を反映した、9人から成る新しいFTF世話人会が1月に発足しました。創立会員4人のうち、今でも活躍し、FTFの創立主旨をしっかり認識している原あんずさんと伊東あいこさんが管理責任を引き受けました。こうした一新が可能になったのは、育児に忙しかった世代がリーダーシップを取るまでに成長したことと無縁ではないと思っています。

ここで昨年暮れまでFTF世話人として活動し、盛大だった年末親睦会、昨年まで続いた初夏のピクニックなどで活躍して下さった、武田さん、ジョンソンさん、池端さん、を始めとする10数人の旧世話人会の人達に深く感謝します。(池端さんは引き続きFTF世話人を引き受けて下さっています)

世話人会があるとは言え、FTFの原動力はあくまでもその会員にあり、世話人会の役割は、一般会員の必要を敏感に捉え、彼らを下から支え助けることにあります。プレーグループや日本語学校運営で十分経験を積んだ新しい世話人達がそれを十分考慮した運営をして行くだろうことは疑っていません。

「おしべ」「めしべ」の由来

最後に、名簿の子供の性別の「おしべ」「めしべ」の由来を話しましょう。若い人達でも多少は知っていると思いますが、NHKTVの連続子供番組に「ひょっこりひょうたん島」というものがありました。実はその前に、やはり大評判の「チロリン村とクルミの木」というパペット番組がありました。黒柳徹子などが声優となり、野菜と小動物が繰り広げる楽しい連続物語でした。チロリン村に共同浴場がありました。そこののれんには「おしべ」「めしべ」と入り口の区別が書いてありました。名簿を作る時になぜかそれが浮かんできたのが名簿の「おしべ」「めしべ」の由来です。

2011年春

三浦信義
元FTF管理人 (2001年-2011年)


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